従軍看護婦の体験記は多く出版されているし、この夏もいくつかの紙面に登場した。だが、従軍看護婦が日赤(都道府県支部)の発行した「赤紙」によって召集されたという事実を、戦後世代のどれほどが知っているだろう。
私は元従軍看護婦二人から話を聞く機会を得た。二人は、1944年に召集され、満州の陸軍病院へ派遣された。2年間の従軍予定だったが、戦後は八路軍の捕虜となり、日本に帰国したのは1958年。実に、敗戦から13年が過ぎていた。その詳細を『従軍看護婦と日本赤十字社』(文理閣)にまとめながら、とりわけ日赤との関係を知るにつれ、彼女たちの証言を個人的な体験談に済ませてはならないことをあらためて感じた。なぜなら彼女たちは、日赤が当時の国策と密接に結びついて養成された看護婦たちだからである。
太平洋戦争当時、出征兵士を出せない家は肩身の狭い思いをしていた。
「それならば女でも戦争に行って御奉公しなければって思ったんですね。そうなると日赤の看護婦しかないんです」。
彼女たちの証言を、単に「戦時中だったから」と片づけてしまうと、その受け皿だった日赤が果たした役割を見落としてしまう。
従軍看護婦の養成も派遣も政府や軍部の事業ではなく、日赤の事業だった。日赤はそもそも民間組織だが、明治以来の戦争政策に呼応し、徐々に女性による戦地傷病兵救護の体制を確立していった。日赤看護学校卒業後は召集に応じなければならないという応召義務(最長で卒後20年間)も、日赤が定めた制度である。家庭に入り子育ての最中であっても、日赤から「赤紙」が届いた。民間組織ではあっても、日赤は強い拘束力を持っていたのである。
そして、この制度を資金と世論とで支えたのが日赤社員である。日赤社員とは、日赤病院など日赤の事業所や施設で働いている人々のことではなく、日赤に社費を出資した一般の人々だ。「決戦だ戸毎日の丸赤十字」(1943年、日赤標語一等)と謳われ、一戸一社員の方針のもと、家々の玄関先に赤十字の札が掲げられた。社員数は、太平洋戦争に突入して1,000万人を超え、1945年には1,500万人もの人々が社員となって従軍看護婦の制度を支えた。
日赤は、戦後も朝鮮戦争の際に「赤紙」を発行している。新憲法があるにも関わらず、断りきれず従軍した看護婦もいた。
戦後63年を過ぎ、従軍看護婦という言葉すら知らない世代も確実に増えた。それは、朝鮮戦争以後、日赤が従軍看護婦を派遣していないという事実を示すものではあるが、そのことを平和のうちに継続するには、彼女らの証言を語り継ぐだけではなく、国策と結びついて事業を展開した日赤という組織の歴史に、丁寧に位置付けることが不可欠である。
08.8.30
大阪健康福祉短期大学
川口啓子
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