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機関紙「日赤労働者」

“早く日常生活に戻りたい” 大震災被災の石巻単組へ 高橋委員長に聞く 全国から支援と激励を

 東日本大震災発生から3週間後、東北自動車道に一般車両も通れるようになり、本部の羽根田中執が3月29日から31日まで、激励と情報収集をかねて石巻単組を訪問しました。

支援が続々と

 東北道を北上するにつれ「段差注意」の標識が目立ち始め、サービスエリアのパーキングには、支援物資と思われる沢山の荷物を積んだ車が数多く見受けられるようになってくる。東京や横浜のみならず、岐阜、名古屋、あるいは岡山など遠方からの車も少なくない。
 パーキングで荷物を集めたり配分したりしているグループや、携帯で連絡を取り合ってこの先の動きを確認したりしているグループがいるが、彼らはボランティア組織のようだ。「日本中がつながろう」を合言葉に、活動を広げているボランティア組織があるとニュースで言っていたことを思い出す。

生活情報流す

 翌朝仙台市内に入ると、ものすごい渋滞である。電車が動いていないこと、支援の車が沢山来ていることが原因だそうだ。3割ぐらいのガソリンスタンドがオープンしているようだが、どこも給油待ちの車で長蛇の列になっている。仙台市内でもまだ水やガスは復旧していない。
 テレビやラジオでも、主に石巻や女川など南三陸地区に対する「水」、「紙おむつ」や「粉ミルク」等の配布場所や時間、あるいはオープンを予定しているお店の名前、場所、商品、そして入浴可能な温泉や場所、そこに行くためのバスの時間などを常に案内している。地震発生から3週間になろうというのに、まだ支援物資が十分に届かないところもあるという。

職員全員無事

 石巻に到着。病院には熊本、沖縄、富山、東京など各県の赤十字組織からの支援部隊が大勢入っている。北海道や九州をはじめ日本全国から順次支援が入っているそうだ。まさに赤十字組織が生かされた態勢が取られている。
 病院職員全員が無事であることが24日になって確認され、これまで病院に来ることができなかった職員も28・29日には復帰し、28日の週になってやっと平常の勤務に近い体制が取れるようになったという。
 しかし病院の1階では、いまだに簡易ベッドが10台近く設置され、避難所等から搬送されてくる救急患者の対応にあたっている。また玄関前には薬や診察、あるいは相談のための受付が設置され、順番を待つためのロープや大きなテントが張られている。これら救急や日常診療外の対応は支援部隊の仕事のようだ。
 病棟では水の確保は十分にできているが、市内ではまだ復旧していないことを配慮し、患者の清拭なども本来の半分程度に抑えているという。

地震発生時は

 透析勤務の看護師、単組の高橋委員長に地震発生以降の行動を聞いた。
 11日午後2時46分地震発生。当日、翌日と休みの予定だったが、病院に駆けつける。その車中で大津波の警報を聞く。登院してきた職員は最初一堂に集められ待機していたが、多くの市民が集まり始めたため、忙しくなりそうだと職場に入り片付けや準備などを始め、そのまま病院に泊り込む。
 12日、石巻地区のほとんどの病院が被災したため、透析を必要とする患者が集まり始める。被災し病院に来られない職員もいるため勤務に就いたが、何をしたかはよく覚えていない。途中一度家に戻る。家自体は被災しなかったものの、途中の道路は冠水していたため6`の道のりを2時間近くかけて歩いた。この時に巨大な津波が来たことを事実として体感する。
 13日になると透析患者がさらに増え、10時間シフトを組んで対応するが、実際には12時間から14時間の勤務となり、連日病院に泊り込む。この2、3日の食事はパン。そして院内テレビのニュースで津波の実態、被害の大きさを知る。
 20日頃から一部患者が仙台市内の病院に搬送され始め、少しずつ落ち着きを取り戻す。この間に休みは1日あったが、ガソリンの給油に徹夜で13時間並ぶ。連休を過ぎ、さらに転院が進み、通常より少し多い程度にまでに患者数が納まるようになってきた。そして28日の週になって通常の勤務シフトが組まれるようになる。

爪痕は深く…

 単組の組合員の被害は、家を流された者が1名、流されはしなかったもののもう住むことができない状態の者が2名、住めるかもしれないけど今は居られない者が2名ほどで、5名は大きな被害を受けたことが明らかとなった。
 家を流された組合員の住んでいた地区へ行ってみた。途中、2年前まであった旧病院前の道路脇に、流された車や漁船が現れる。古い民家は流され、新しい家でも壁が崩壊したりしていて、とても生活できる状況ではない。病院の新築移転が遅かったなら、大変なことになっていただろう。
 さらに港方面へと車を進めると景色が一変する。市民病院のある辺りの木造住宅は一軒もない。すべて流され、広い土地すべてが瓦礫の原となっている。この一角に組合員の家は建てられていた。高橋さんの住まいも、少し前までこの辺りにあったという。転居を考えていたが、病院が移転したことを受け実行に移したそうだ。同じようなことで被災を免れた組合員がもう一人いる。

メンタル心配

 あれからもう3週間になる。でもこの地区はまだ本当に被災地そのもの。そしてこのような瓦礫の原と化した沿岸地域が、茨城から福島、宮城、岩手、そして青森と延々400`以上にわたって続いているのである。福島だけでなく、女川原発に対する不安も大きく横たわっているこの地域が、早く平和で安心できる場所となるよう願わざるを得ない。
 高橋委員長は言う。
 「病院職員のメンタルが心配です。最近、些細なことで口げんかをしたりのイザコザが起きるようになっています。休みが必要なのもあるけど、早く人間らしい生活ができる環境に戻らないと…」

◇   ◇

 「メッセージや支援物資、本当にありがとうございました。被災後の疲れが出ていましたが、元気が出てきました。頑張るぞ…って思いました」
 高橋委員長からのメールが、携帯に届いていました。

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